鹿沼市磯町 村井の女躰(じょたい)権現
資料について(2) で紹介した「下野の道祖神」に掲載されている性神です。
国道293号線、例弊使街道沿いで鹿沼市磯山、小字は女体という場所です。
国道脇から崖の岩肌を掘った急な階段を登っていきます。今まで何度か車で前を通っていますがここにこんな階段があるとは思いませんでした。
登って行くと鐘があります。建造物はこれしかありません。
斜面の岩に亀裂があるはずなのですが、雑草や土に埋もれて見る事ができません。
当たりをつけて撮影しましたが、帰宅後、資料の写真と照らし合わせるともう少し左手の藪の中のようです。
周辺には石仏や祠などがあります。
あまり収穫がないまま急な坂道を降ります。下には国道293号線が見えます。
以上、「下野の道祖神」を元に訪問した現況なのですが、まとめる上でこの場所を調査をなさっている方はいないかと調べていると、どうも腑に落ちない部分が出てきました。
玄松子の記憶 の 胸形神社 の項では、当地より7キロほど北にある 鹿沼市村井町の胸形(むなかた)神社 は元々は女体権現だったとしています。
「下野の道祖神」 の本文においては、「下野国誌」から
>「村井ノ女躰権現」都賀群村井邑にあり是も日光滝ノ尾女躰権現のうつしなりといふ。
>また一説には、神名帳に載せたる村桧神社とも云、~。
と、引用しているにもかかわらず
>その村井邑は今鹿沼に編入されて大字を磯と呼んでいるところであるようだ、としています。
もしかしたら村井という地名が広範囲にわたっていた時代があったのかとも思いましたが、栃木県における市町村の変遷 によると、明治23年時には村井村は北押原村に、磯村は南押原村に周辺の村と共に合併していたようで、村井、磯の両村が同時に村井と呼ばれる地名であった可能性は、時代を経て集落が合併して大きくなっていく流れや村井村と磯村の距離からみても低いように感じます。
いずれ江戸時代以前についての資料で確認しなければいけない事と考えています。
そのようなわけで「村井の女躰権現」と目次タイトルにまで冠している村井という地名に触れる事なく、女躰権現の女躰から磯町の小字である女体に注目し、それを裏付け無く飛躍して結びつけ誤謬が生じているように思えてきます。
訪問時、たまたま国道を歩いていた近所に住むお年寄りの女性に、ここは何ですか?と尋ねてみましたが女躰権現という名称を聞く事はできませんでした。
子供の頃、遊び場にしていたそうです。たぶん資料の写真の様子から考えても現在よりは入り口がはっきりしていて階段も登りやすかったのではないかと思います。
「村井の女体権現」という名称に疑問も浮上し、性神そのものも撮影が出来なかった消化不良のエントリーになりましたが、この物件自体は、馬頭の御前岩 、 赤見の磯山弁天 (同じく磯であるのは地形と関連があるようです)、日光松原の弁財天 と同様のものとして分類出来る性神であるのかもしれず、周囲の住宅も少なく里山としてメンテナンスされてそれほど鬱蒼と木々がしげっていなかった時代には、例弊使街道の何がしかのメルクマールであったのかもしれません。
現地マップ
駐車場はありません。




































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